2013年7月13日土曜日

「食べ物の写真を撮る」ということについて


「やたら食べ物の写真撮る人いるけど、意味わからん、早く食えよ冷める、って思う」

という意見の友人とともに、先日ごはん食べてきました。
写真は撮りましたごめんなさい。

私自身はわりと、食べ物とか行った場所とか一緒にいる人とか
何気ないその場の風景を、好んで撮りたい派です。
でも、周りはあまり積極的に写真を撮る人がいないので
なんとなくいつも、こそこそビクビク撮ってます。



なんで人と一緒にいる時に、やたら写真撮る人が嫌だと思うのかというと、
  • 撮るものがある=素敵なものに囲まれている=リア充気取り
  • 写真を撮るという行為=オシャレ気取り
  • どうせあとでFacebookにあげて自慢するつもりなんだろう?
  • 食べるために食べるのか、撮るために食べるのか、本質忘れてるのでは?
あたりが理由になるんじゃないかなあ、と思います。

そんな具合で、写真を撮るという行為や、カメラが趣味の人に対して
「意図的な『自慢』や『承認欲求』を感じずにはいられない」
と感じる風潮は、世間一般にわりと蔓延しているような気がします。
(あくまで私の見ている「世間」と「一般」の範疇でのお話にはなりますが・・・。)

でも結局、写真を撮るのも、批判をするのも、会話をするのも、オシャレするのも、
基本的には自己主張とか承認欲求が根本にある、ということは生きる上で仕方ないと思います。
自分で自分を認識したり、誰かに存在を認識してもらってはじめて、
生きた心地がしてくるものなんじゃないかと。

自分から何かを発することを、いちいち「自慢」「承認欲求」と片付けられてしまったら
写真はおろか、話すことも服を着ることも、何も出来なくなってしまいそうです。



私の場合は、健全に生きるための趣味です。
好きなものの写真を撮ることが。

写真もそうだし、こうしてブログで書いた考え事も、
コレクションにしてwebという棚に並べている感覚です。
そうして、客観的かつ主観的に眺めながら自分を振り返ってみたり、
誰とも知らない人に「ああこういう人がいるんだな」と認識してもらうことで、
自分の存在を確かめている感じ。

私は自分のこと人に話すのがおそろしく苦手だから、
その分写真とかものを書くことで自己主張したり、承認欲求を満たしているところがあります。
きちんと自分を語ることができれば
あえて写真と文章をWebに放り投げることもしなかったかもしれない。

あと、楽しかった日々の写真を眺めてニヤニヤするのは、
つらい日々を生きる時の糧になるという意味でも欠かせません(これ重要)。



承認欲求や自慢は、多くの場合言葉で語られたりして、
誰もがやっていることだと思う。
会話の中で、休日に行った場所の話をしたり、人生観を語ったり、音楽の話をしたり。
写真を撮るのも、音楽やるのも、会話をするのも、手法が違うだけの話。

写真撮るでも自分語りするでも、
表参道の路面店でも高円寺の商店街でも、
ジルスチュアートでもBEAMSでもパタゴニアでも、
それぞれがそれぞれのやり方で自己主張をし、承認欲求を満たしているわけで、
少なからず「他人」から見れば何でも異様だし目に付くのは仕方ない。

そういう、自分と違う手法で自己主張を行う人を
やたら批判したくないなあ、と思ったのですわ。



そういや「オーガニックな人がきらい」という意見もあって。
いわゆる森ガールみたいな。
おしゃれで高いカフェでカメラ持って、
妙に値が張るノンオイルの味が薄いランチを食べてるよね、あいつら、っていう。

いやーおもしろいこと言うな~と、大いに笑いました。

でもそう言うと今度は、
仕事帰りにヨガやジムに通い、
休日は有楽町マルイでショッピング、彼氏と広尾でディナーして、
週末有給でハワイ旅行して、ドトールではなくスターバックを好むよね、あいつら、

と言われても文句は言えないよ姐さん、
とか思っていたのはここだけの話です。

そんなこんなで、嫌って言うほど食べ物の写真を並べてお送りいたしました。
美味しいもの見て元気出します。


かしこ。