「やたら食べ物の写真撮る人いるけど、意味わからん、早く食えよ冷める、って思う」
という意見の友人とともに、先日ごはん食べてきました。
写真は撮りましたごめんなさい。
私自身はわりと、食べ物とか行った場所とか一緒にいる人とか
何気ないその場の風景を、好んで撮りたい派です。
でも、周りはあまり積極的に写真を撮る人がいないので
なんとなくいつも、こそこそビクビク撮ってます。
- 撮るものがある=素敵なものに囲まれている=リア充気取り
- 写真を撮るという行為=オシャレ気取り
- どうせあとでFacebookにあげて自慢するつもりなんだろう?
- 食べるために食べるのか、撮るために食べるのか、本質忘れてるのでは?
あたりが理由になるんじゃないかなあ、と思います。
そんな具合で、写真を撮るという行為や、カメラが趣味の人に対して
「意図的な『自慢』や『承認欲求』を感じずにはいられない」
と感じる風潮は、世間一般にわりと蔓延しているような気がします。
(あくまで私の見ている「世間」と「一般」の範疇でのお話にはなりますが・・・。)
でも結局、写真を撮るのも、批判をするのも、会話をするのも、オシャレするのも、
基本的には自己主張とか承認欲求が根本にある、ということは生きる上で仕方ないと思います。
自分で自分を認識したり、誰かに存在を認識してもらってはじめて、
生きた心地がしてくるものなんじゃないかと。
自分から何かを発することを、いちいち「自慢」「承認欲求」と片付けられてしまったら
写真はおろか、話すことも服を着ることも、何も出来なくなってしまいそうです。
私の場合は、健全に生きるための趣味です。と感じる風潮は、世間一般にわりと蔓延しているような気がします。
(あくまで私の見ている「世間」と「一般」の範疇でのお話にはなりますが・・・。)
でも結局、写真を撮るのも、批判をするのも、会話をするのも、オシャレするのも、
基本的には自己主張とか承認欲求が根本にある、ということは生きる上で仕方ないと思います。
自分で自分を認識したり、誰かに存在を認識してもらってはじめて、
生きた心地がしてくるものなんじゃないかと。
自分から何かを発することを、いちいち「自慢」「承認欲求」と片付けられてしまったら
写真はおろか、話すことも服を着ることも、何も出来なくなってしまいそうです。
好きなものの写真を撮ることが。
写真もそうだし、こうしてブログで書いた考え事も、
コレクションにしてwebという棚に並べている感覚です。
そうして、客観的かつ主観的に眺めながら自分を振り返ってみたり、
誰とも知らない人に「ああこういう人がいるんだな」と認識してもらうことで、
自分の存在を確かめている感じ。
私は自分のこと人に話すのがおそろしく苦手だから、
その分写真とかものを書くことで自己主張したり、承認欲求を満たしているところがあります。
きちんと自分を語ることができれば
あえて写真と文章をWebに放り投げることもしなかったかもしれない。
あと、楽しかった日々の写真を眺めてニヤニヤするのは、
つらい日々を生きる時の糧になるという意味でも欠かせません(これ重要)。
誰もがやっていることだと思う。
会話の中で、休日に行った場所の話をしたり、人生観を語ったり、音楽の話をしたり。
写真を撮るのも、音楽やるのも、会話をするのも、手法が違うだけの話。
写真撮るでも自分語りするでも、
表参道の路面店でも高円寺の商店街でも、
ジルスチュアートでもBEAMSでもパタゴニアでも、
それぞれがそれぞれのやり方で自己主張をし、承認欲求を満たしているわけで、
少なからず「他人」から見れば何でも異様だし目に付くのは仕方ない。
そういう、自分と違う手法で自己主張を行う人を
やたら批判したくないなあ、と思ったのですわ。
そういや「オーガニックな人がきらい」という意見もあって。
いわゆる森ガールみたいな。
おしゃれで高いカフェでカメラ持って、
妙に値が張るノンオイルの味が薄いランチを食べてるよね、あいつら、っていう。
いやーおもしろいこと言うな~と、大いに笑いました。
でもそう言うと今度は、
仕事帰りにヨガやジムに通い、
休日は有楽町マルイでショッピング、彼氏と広尾でディナーして、
週末有給でハワイ旅行して、ドトールではなくスターバックを好むよね、あいつら、
と言われても文句は言えないよ姐さん、
とか思っていたのはここだけの話です。
そんなこんなで、嫌って言うほど食べ物の写真を並べてお送りいたしました。
美味しいもの見て元気出します。
かしこ。