2013年11月10日日曜日

雑誌論:「東京慣れたしもういい大人だし」と言わず、今こそTokyo graffitiを。


Tokyo graffitiを久々に読みました。よく行くハンバーガー屋さんに置いてあったやつ。
大学入学の頃、上京することになった当時はよく読んでいたものです。
「これが憧れのTOKYO LIFEや!」と、隅々まで読みまくって目をキラッキラさせていた。

けど東京暮らしも6年目になり、大学を卒業し、会社に勤めだして2年目。
すっかり東京サラリーマン生活の荒波にもまれるなどして、
ある程度東京という土地にも慣れてきた今、あまり読まなくなってしまったTokyo graffiti。
「現実の東京生活は、そんなにキラキラしたもんばかりじゃねえよなぁ・・・プハ~(エアータバコ)」
とわかったような風を吹かしている始末。
やれやれ、我ながらつまらん大人になりかけたものです。


http://instagram.com/p/f-b28XPBGx/


まあ実際、Tokyo graffitiの読者層って、東京に出てきたばかりだったり、
いよいよ東京遊びの楽しみを知り始め、「トーキョーウェーイ!」ってなる時期の若者が多いのかもしれません。
載っている人も、大学生くらいとか、高校生が多い。
読み始めた頃は「ああかっこいい大人たち」と思っていたけど、
今ストリートスナップとか見て、「いやはや洒落た人だなぁ」と思い、
()に入った年齢を見ると、もはや年下ばかりで驚く。
これで19歳はアカン!と。何がアカンのかわからないけど。
とにかく急激に、アンタもう若くないのよ大人しくしなさいと諭されたかのような感覚に陥るのです。
いや、まだいちおう若いハズなんだKEDONE!


雑誌の描く世界と、自分が現実に生きる世界に、ちょっとした乖離を感じたが故に、
私はこのTokyo graffitiという雑誌から離れてしまったのだと思います。
その乖離に対して「あんなんもうダセーヨ!」という嫉妬と紙一重の負け犬の遠吠えをかましつつ、
「GINZAを読むあたくし」という、新たな夢と希望を抱ける雑誌を拠り所にする。
自分自身の心身の成長と、「大人になった気」の膨らみ具合と、
理想とともに抱く幻想に合わせて、読む雑誌も変わっていく。
大二病の終焉と、社二病の開化。



とはいえ、その時代ごとに常に何かしらをこじらせているのは事実として、
改めて昔好きだったものを読み返したり、聴き返したり、見返したりするのって、
すごく楽しい娯楽だなあ、とも思っております。

「昔」には、少なからず今よりも物を知らない分の純粋さがあって、
そういう無垢な当時の感性が、今の自分を少し浄化してくれたりもする。
あれだけ、「もはやダセー」と思っていたものの中に、
今だからこそ改めて「ハッ」とさせられる何かがある。
どんなダサい嗜好も大事な思い出であり、無条件の愛情を抱き続けているのですわ。きっと。

だからこそ、大人たちは今、小ダサさがあると思った90年代ポップスをエンドレスリピートし、
「若気の至り」の象徴だったようなファッションブランドの再隆起に喜び、
そんな我らが青春時代カルチャーをCOOLとかカワイイとか言う今時の若者に嫉妬してみたりする。



以上のように、我ながら厄介極まりない哲学を巡らせつつ、
Tokyo graffitiを端から端まで読み尽くしていた昼下がりのハンバーガー屋。
そりゃもうたのしいのなんのって。


そんな時に見つけた、一枚の写真。

http://instagram.com/p/gNzdKxPBBv/

ハッ

たぶん、Tokyo graffiti購読全盛期だった頃の私だったら、
受け流していたであろうオシャレでもカッコよくもないこの写真に、
なんとも言えない矛盾と哀愁と、壮大な人生観を感じてしまいました。
過去に大事な人がタバコで身体を患った時の悲しさを忘れられない一方で、
今、若気の至りとかではなく、生活の糧として酒やタバコを嗜む人が周りに増えたからこそ。
この言葉が心臓にぐさっと刺さったままずっと取れなくて困っている。



こんな具合にたぶん、上京したてホヤホヤじゃない今だから気付かされるものって、
過去好きだったアレコレの中に、いろいろ落ちているんだろうな。
そう思ったら、前向いて成長とか新しい刺激とかばっかり求めている場合じゃない。
こりゃ喜んで後戻りしなければ、と、そんな気がして、今日も現実逃避が捗る次第でございます。


かしこ。