2013年1月26日土曜日

好きな作家の新刊、好きなバンドの新譜、好きな居酒屋の新メニュー、そして母親との電話



母親との電話が、自分史上いちばん饒舌になる気がしています。

家族とは、私が丸裸でこの世に生まれた時から今までを
いちばんよく知っている相手であり、もはや隠せるものが殆ど無い。
そのため、「これを言ったらどう思われるかな?」っていうのを一切気にせず、
いちばん思ったまんまを言えてしまうのです。

特に母親とは、私が年を重ねるにつれてどんどん、
親と子という関係をいったん排除して、お互い個の人間同士として、
「こういう時ってこう思うんだよね」という互いの意見を、
説き伏せたり敵対して批判するとかなく、まっさらな気持ちで聞いて、
話せるようになってきたように感じます。勝手に思ってますすみません。


信頼のある無責任さは、会話を文化的な嗜みにする

たぶんお互いを何やかんやよく知っている者同士なのです、私たち親子というのは。
絆というのももちろんあるし、私もある程度大人になったので(なったよね?)
互いの存在をどしんと構えて信頼できるようになったんじゃないかしら。
だから、たとえ相手が突拍子もないこと言っていても、
「こうは言ってるけど、まあこの人のことだから大丈夫だろう」と、

余裕を持って聞けるようになったのが大きいのだと思います。
この人はこの人で何とかやるものだから、
特にここで干渉したり気を遣うまでもない、と。

「気持ちのよい無責任さが、心地の良い会話を生む。」
・・・うまい言い回しが見つからないので、そう表現しておきます。
気持ちのよい無責任さも、信頼あってこそ、かもしれない。

とはいえ、私のほうがやっぱりまだ子どもなので、
一方的にすきなことしゃべりまくっている気がするけれど。
だから母親として、この娘またクソみたいなことほざいてやがるぜ、
とか思っているかもしれない。すみませんすみません。

でも、逆にこうして親元を離れている環境で、
親の知らない物事をどんどん持ち帰ってきて興奮してものを語る娘の話は、
それが幼稚っぽかったとしても母親としては、
新鮮でなるほどねーとか思ったりも
しませんか。しないかしら、あれ。

お互い今は離れて暮らしているから、
それぞれがそれぞれの、違う環境やペースで生きるようになりました。
だからこそ、今までは何の変哲もなかったような日常の無駄話も、
好きな作家の新刊エッセイを読むような、ちょっと遠いけど馴染みがあり、
かつ新鮮で面白味のある、文化的な会話となるのかもしれません。


好きな作家の新刊を読む時の感覚に似ている

好きな作家、たとえば私は伊坂幸太郎さんがすきです。
伊坂さんの本ならきっとおもしろい、と、
自分の中では圧倒的かつ安定的な信頼があります。
同時に勝手な親近感とか馴染みみたいなものもあります。
だから、その人がどんな小説を書こうが、それはそれとして素直に受け入れられます。

たまに、ちょっとこの内容エグくないか?とか、
なんか難しすぎてよくわからない、とか思うことも無くはないです。
しかしだからといって、彼を批判する気持ちにはならないし、
一言物申してやりたいとも思いません、特に。
「今回はそういうことだったんだな、なるほど新鮮ー」
「おもしろい本を書く人であることはよく知っているし、まあいいか」
で済みます。案外読んでいるうちに、「やっぱおもしれえじゃん!」ってなったりとか。
それは、私が自分の主観的な感覚ではありますが、
伊坂さんを長いこと愛読してきたことと、
そこには勝手ながら「信頼」とか「余裕」の気持ちがあるからなのかなあ、と。

基本、本が相手なので、本と喧嘩や議論はできないしするつもりはない。
あっても感想を述べる、とかそういうこと。
そこには別に干渉とかその作家の存在の否定みたいな感覚は無いし、
特に作家を気遣うこともしない。ただ、淡々と純粋に思ったことを述べるだけ。
だからといって、私とその本の関係は壊れもしない、
というある意味私の一方的な「余裕」と「信頼」。
そしてまた新刊が出たら、それを無垢に楽しみにする。
事実、その本に書かれた文章や話というものは、やはり面白いのだ。
突拍子ない内容でも、こう来たかー、と新鮮で楽しいもの。


これが、母親との電話の感覚と似ている気がしたのです。
好きな作家の新刊エッセイ、もしくは好きなバンドの新譜とか、
好きな居酒屋の季節限定新メニューとも言えるかもしれない。


何が言いたいのかよくわからなくなってきました。
つまりは、母親と電話で話す私は、やたら饒舌で生意気で厚かましいので、
今後もきっとこの語り口調は、母親の前でしか見せられたもんじゃないだろう。
いつもすまん、母。そしてありがとう。これからもヨロシク。


かしこ。