私と同じく、村上ラヂオしか呼んだことのない人が、
発売早々に「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を買ったのだ。
ハルキストを装ったかのような振る舞い。なんということでしょう。
で、いきなりどうしたの、と聞いてみたら、
「ニュースであまりに話題になってるし、
どっかの本屋が『村上春樹堂』になっちゃうくらいだし、
近所の本屋言ったら残り3冊になってたから、もうこれは買うしかないと思っちゃった」
のだそうだ。
見事にメディアと本屋の思うつぼというわけですな!わが母ながら実に潔い!
古くからのハルキストの方々には嫌がられそうでなんだかソワソワしますが、
しかし何かに興味を持って情熱を注ぐようになるきっかけって、
案外そのくらいミーハーなものなのかもしれません。
村上春樹について、外堀を埋めている
そんな村上春樹、私自身まったく詳しくは無いのですが、どうも好き嫌いが分かれるらしい。(それは村上春樹に限った話ではないか)
で、昨日たまたまこの話題をハイボール片手に話した某氏も、
村上春樹は嫌いなタイプとのことだった。
ただ、
「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、あれだけは良い。
羊とかノルウェイとかもう意味わからんけど」
とのこと。
何がよくて何が悪いのか詳しいことはよくわからない(覚えてない)けれど、
そう言われると、『世界の~』を読んでみたくなってきたわけです。
私も長らく村上春樹は読まずに生きてきて、前もそんなことを書いていた。
とりあえず、村上ラヂオとかケトルの村上春樹特集だけ、中途半端に手を出したりするなど、
もう母以上にたちの悪いミーハーっぷりを発揮していたのですが・・・。
まず最初に手を出すのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にしようかと思います。
それもいつになることやら。
伊坂幸太郎の「お洒落さ」
そうした流れで、引き続き某氏と小説の話をしていたのだけど、私が、小学生の頃から伊坂幸太郎が好きだと言うと、
「も~う、小学生で伊坂読んじゃうところでもうあかんね~」と一蹴された件。
アカン!?
なぜあかんのかはよくわからない(覚えてない)けれど、
たぶん例によって、「おしゃれ過ぎる」からなんだろうと思います。
伊坂幸太郎独特の大どんでん返しのかまし方とか、
ところどころボブディランとか音楽を持ちこんできたりとか
作中でよく登場する、かっちょいい名台詞とかが。
おそらく村上春樹の作品にしても、
パスタ茹でたり、ビング・クロスビーのホワイトクリスマス聴いたりしてるところが
某氏に言わせると、「あんなんチャラいっすわ!」というところなのだろう。
(ちなみに情報元はケトルです。読んでも無いのにさも読んだ風なことを書いていることをお詫び申し上げます。)
ビーチで読みたい、京極夏彦
さて。そんなこだわりの強い某氏イチオシの作家は、京極夏彦だそうな。妖怪研究家とかいう、見た目にも胡散臭さは半端じゃないのだが、
その作品自体は非常におもしろいらしい。
京極氏の作品は、いわゆる推理小説でもあるのだが、同時に妖怪小説とも言える。
?
曰く、現代の推理小説では科学が進歩しているため、
ある事象に対してこういう科学的な原因があるということを基に解決をしていくが、
昔は今ほど科学への理解が成熟していなかったから、
よくわからない不可解な事象については「妖怪の仕業」とすることで解決をしていたらしい。
だから例えば、「なぜか背中や肩が重い」と感じたら
姿勢の悪さとか目の疲れとかによる血行不良でどう、とかではなく、
それは子泣きじじいが憑いているからだ、ということになる。
そういう意味で、推理小説でもあり妖怪小説でもあるという独自の作風が確立しているのだとか。
(というのも、緑茶割を片手に聞いた、超うろ覚えの内容なのでご了承ください)
他にも禅の要素が取り込まれているとか、
なんかいろいろ奥深そうだということはわかりました。(適当)
暑いビーチでのんびり読むには最適な小説らしい。(ほんまかいな)
とはいえ、こう話に聞いてみると、なかなかおもしろそうな気がしたのも事実。
読まずには何とも言えないので、
本当にリゾート感いっぱいの真夏のビーチで読むような本なのか、
一度確かめてみる必要はありそうです。
ほぼ日でも糸井さんと対談していた、京極夏彦さん。
だいたいミーハーだった
という具合に、作家や小説についてそれぞれ勝手に持論を展開してきまして、この度見事に、私は新たな先入観と偏見を手に入れてしまったわけです。
こんな状態で、村上春樹や京極夏彦を読んでいいものやら、多少悩ましいですが、
まあそれはそれで、充分良いきっかけにはなりそうだ、と思っております。
確かに、読んだり行ったり食べたり、何事も実際に自分で体験する前から、
「これはこういうものだから」、と先入観を持ってしまうのはなかなか厄介なことです。
どこかで仕入れてきた情報や、誰かの武勇伝的体験談を聞いて
さも自分が体験して知っているかのような気になると、
本当に知っている人からしたら、それはもう滑稽に忌々しく映るでしょうし。
何より、生身の体験をしていないから、言うことはどこか地に足が付いていなくて、
自分の頭と心と体で感じる、ということがしにくくなってしまう。
何をしたって結局、表面的な自分にしかなれなかったり。
とはいえ、冒頭でちらりと書きましたが、
何かに興味を持って情熱を注ぐようになるきっかけって、
案外そういうミーハーなものなのかもしれない、とも思うのです。
ビートルズが好きになったのも、「流行っていたから」とか。
ヒッピーになったのも、「周りがみんなそうしてたから」とか。
バックパッカーにはまったのも、「高橋歩の本の世界観に感化されたから」とか。
世界一周旅行したのも、「沢木耕太郎みたいになりたかったから」とか。
一眼レフカメラ買ったのも、「吉祥寺散歩するのにかっこつくから」とか。
装苑読み始めたのも、「何かこれ読んどけばおしゃれっぽいから」とか。
(※あくまで例えの話です)
最初のきっかけは、いわゆる「チャラいっすわ!」っていう動機かもしれない。
最初は「こういうことする俺かっこいい」としか思わないかもしれない。
でもだんだん、本気でそれが好きになって、
寝る時間も恋人との約束も忘れるくらいに情熱を注いで。
そこにかつての自分のような初心者が現れ、さも知ったかのような口聞いていたものなら、
「チャラチャラしやがって、本質もわからんくせに」と怒ってみたり。
そうして気付いたら、怒れるくらいに確かな自分の体験になっているという。
すばらしいじゃないですか。
こうした繰り返しで、世の中の文化は日々循環しているのかもしれません。
そして今日も、かつてミーハーとしてスタートを踏んだ誰かが
今や誰もが知るような、ものすごいものを生み出しちゃったりしていたり。
そんな未知数さもまた、おもしろいものです。
と、そんなことを話したり考える良いネタと機会を与えてくれた愉快な人々よ、
今日もありがとう。
かしこ。