2012年6月23日土曜日

そもそも、大きな世界を見据える前に、小さな自分を見直したい。

最先端のこんな機能を使えば!
今トレンドのこちらのサービス!
ハイセンスなデザインを施しました!


たぶん、いやもちろん一概に否定はしないけれど、
そもそも、まず本当にやるべきことって、他にあるんじゃないの?という話です。

私自身、新しいWebの「しくみ」を広く届けるために、
日々奮闘して仕事をして、情報を集めたりしているわけなのですが、
その「しくみ」は、あらゆるWebサイトの問題点を根こそぎ解決するものではないと思っています。
「しくみ」で解決できる部分は、機能としてのパフォーマンス向上で、
でも、すべてのWebサイトが機能を備えれば最強のWebサイトになるってわけでもない。
もちろん、「しくみ」が実現する、工夫をこらした最強の機能は、
Webサイトが活性化する可能性を、ぐーんと広げてくれます。
けれども、ぐーんと広がるのは、「そもそも」の部分がしっかりできている、という大前提の上で、です。

「そもそも」の部分、って、たとえば、
他でもない、じぶん(たち)のWebサイトに、じぶん(たち)だけの熱い思いを持てているのか、
来てくれた人たちに、正直で誠実な気持ちで対応しているか、
ユーザー目線で、コンテンツをつくっているのか、
ちゃんと「ありがとう」「ごめんなさい」が言えるか、
なによりじぶん(たち)が楽しめているか、
などなど。

つまり、おおざっぱに言うと、
商売人として、当たり前にたいせつなことができているのか、
また人間らしさがちゃんとあるのか。

それができていないのに、
最先端のテクノロジーですべてを解決しようたって、
絶対無理だと思います。
というか、
「そもそも」の部分がしっかりしていれば、わざわざ最先端のテクノロジーって
本当であれば、使うまでもないような気がしないでもないのです。

別にソーシャルメディアなどのテクノロジー使わなくても、クールなデザインじゃなくても、
売れるECは売れるし、人が集まるWebメディアはどんどんコアなファンが集まります。
ソーシャルやクリエイティブってものは、
何にでも効く魔法の薬じゃないし、ひとつの画期的な手段ではあるけど、
逆に副作用起こして全然使えない、っていう場合だってもちろんあるはず。
本当にそのWebサイトにとってソーシャルやクリエイティブが解決方法になるのか、
きちんと見極めた上で、わたしたちは「しくみ」を届けてゆかなければいけない。
届くべきところに、届ける、というような。

わたしは自信と誇りを持って「しくみ」を届けようとしているし、
この思いに偽りはありません。
けど、その「しくみ」を使いたくない、という人がいたって、別にそれはそれでいいと思います。
本当にしっくりきて、こりゃもうすごい可能性広がっちゃうから、
やらなきゃ相当もったいない!というところに、着実に「しくみ」が伝われば、良いのです。
だからあまり一方的に、ソーシャルだ、なんちゃら、って言っちゃあいけないな、と。
もちろん「しくみ」のPRはきちんとして、
必要としている人のもとにはしっかり届けて行かなければいけないので、
力加減とかバランスが難しいところではありますが。
本当は特に使う必要がないはずの人を、変に煽るようなことはしないように、
気をつけなければ、なんですが。。


これを言っちゃあ、身も蓋もないかもしれないけど、
たぶん「そもそも」の当たり前をみんながそれぞれ出来ていれば、
あとは何も必要ないんじゃないかしら。
そして、本人が満足して、大規模じゃなくても、その身近な人がしあわせなら、
それだけでもういいと思う。

古くさい小さな食堂が、王様のブランチに取り上げられて、人気店になる必要はない。
その常連さんと、店員が、長年親しんできた関係を穏やかに続けられるなら。
近所の書店の小奇麗なお姉さんが、美少女コンテストで優勝して、有名人になる必要はない。
書店のお客さんと、その家族、友達、恋人が、彼女の美しさや気さくさをきちんとわかっていれば。
(もちろん、当の本人が行列のできる人気店になりたい!有名人になりたい!と言うのなら別ですが・・・)

とにかく、自分と、自分の身近の大切な人やものや場所のために、がんばるしかない。
よく、世界を見据えて、ダイナミックに行動に移すべき、と言われるかもしれないけど、
わたしは世界を変えられないし、
遠くの世界の誰かのためより、まず近くで笑っている大切な人を守りたい。
そして何より、自分の気持を大切にしたい。
大きなことを問題とする前に、
まず見なおさなきゃいけないのは自分の足元だと、いつも考えています。
自分のできる範囲で、精一杯の自分なりの役割を果たすのみです。

そういう意味で、webサイトも同じかな、と思う。
ソーシャルメディアという新しい大きな取り組みに手を出す前に、
いつもお客さんに見せる顔や、商売への熱い思いを、
もう一度改めて、振り返ってみる必要があるんじゃないでしょうか。


そんなふうに思ったよ。


かしこ

2012年6月5日火曜日

写真で振り返る、思考の整理。


わたし、Facebookちょっと苦手意識があります。
ひねくれ者なので、自分のプライベートなど安易に垂れ流してなるものか!と意地になります。
でも、自己顕示欲とか承認欲求とか、ごちゃごちゃ考えるの抜きにして、
単純に、なかなか会えない人とも気軽に会話できちゃって、
なんだかうれしい楽しい気分にさせられるので、
悔しいけど、Facebookにはお世話になっています。
心が荒んでいる時に、Facebook上でも懐かしいあの人やこの人と
ゆるく交流することで、いろいろ良いきっかけをもらっちゃったりもするので、
悔しいですが、そういう世の中なんだな、と思わざるを得ませんな。
たぶんちょっとの勇気が無いだけで、会いたくても会えずにいる人がたくさんいて、
そういう人と会う言い訳を作れるのが、ひとつのSNSの魅力かもね、と。
変な意地はってないで、会いたい人・話したい人とは会ったり話したりしようと思いました。
まったく、おかしな世界になったもんだぜ。


ゲストハウス行ってきた。
オランダの女の人と、たどたどしい英語を駆使しながら、おいしい窯焼きピザの店でお酒を飲んだ。
意外と英語はどうにかなるもんだ。ずっと読む専門だったけど、たまには喋らなきゃなあと思った。
コニカミノルタプラザで、サイトウリョウ写真展を見た。色がすごくきれい。
人間の怪しさや欲望、自尊心や厳格さみたいなものを、ありありと感じる時間でした。
自分の見る世界はまだまだちっせーと思う。


実家で手巻き寿司をもりもり食べた。ひたすら。
父親の作った茶碗蒸しは、相変わらず最強である。
そしてビールではなく、発泡酒を飲むのが、昔から我が家のスタイルです。あっさり飲めてけっこう良いのよ、発泡酒。
自分の原点はやはり、この家族にあるなあと感じずにはいられないです。
この間、久しぶりにがっつり母親と電話で話したら、無性にすっきりして、
もやもやしていたことが、ひょんなことから解消できるような出来事がポコポコっと起きました。
ああ、これぞ母の力なのだなあと思ったりなんだり。不思議なものです。
ひとまず、この流れに乗って、今週もがんばろうと思った次第です。

かしこ

2012年6月1日金曜日

90年代の音と空気。


90年代というと、私はただ目の前の小学校生活に毎日必死で、
大人たちはどんな音とお酒を味わい、踊り、髪型と洋服にこだわりを持っていたのかなど、
まったくもって考えたことなどありませんでした。
その時の私など、たまごっちの世話とドッヂボールと泥団子作りに毎日忙しかったわけで。

でも何となく、90年代の世間のトレンドを、子どもながらに眺めてみた時の印象は、
なんだかコギャルという肌の黒い、だるだるの靴下を履いた女子高生が
「ちょべりば」などという、いちいち癇に障るような意味不明な言葉と、
超重低音の音楽を爆音を撒き散らかす、ハイビスカスを飾った真っ黒な車など、
なんだか粋がった世界があるものだなあ、というような具合でした。
がきんちょのくせに、そんな世間を冷めた目で見ていたような気がします。

そうしていつのまにか私も大人の仲間入りをしまして、
90年代に青春を謳歌していた方々に影響されまして、
フィッシュマンズを始め、その頃のいろんなバンドや歌を教えてもらって、
なんだ、90年代ってこんなにも不思議で自由でイカした世界があったんだ、と思いました。

それまでって、なんとなく古くさいようなイメージだったのに(失礼)
今じゃすごく憧れの時代だったりします。変な言い方だけれど。
奥田民生とか、H Jungle with tとか、YMOとか真心ブラザーズとか、ハイスタとか。
その頃の音楽や雰囲気がすごく素敵だと、今は本当に思っています。

ゆるっとしたTシャツに、だぼっとしたハーフパンツ。
適当な帽子かぶって、おどるかんじ。

たぶん、今30代とかそのあたりの人たちが、
ちょっと若い頃はじけていた文化や(バブル的なのじゃなくてね)
今大人になってもなお、青春時代の文化を残しつつすこし進化させて、
外遊びしたりフェス行ったり踊ったりしてはしゃいでいる姿が、
なんとも素敵だな~と思うのです。
うまく言えないけど。
大人っていいな、って、うらやましがってる最近です。
私も十年後くらいには、あんな風に、少年のような大人になっているのかしら。
なれたらいいね。

かしこ