2012年11月18日日曜日

奇抜裏原CUTiE世代が、POPEYE購読を機に雑誌を語る

雑誌ってすごいな、って、思います。最近改めて。
今じゃインターネットのあちらこちらにおもしろい情報が落っこちているけど、
どんなにおもしろいWebメディアにも勝てない魅力が、雑誌にはあります。
もちろんWebはWebで、雑誌は雑誌で、それぞれ違った魅力があるものだけれど。

雑誌って、基本的にブレがないと思っています。
いつも安定して、私が興味があるテーマをびしっと当ててきて、盛りだくさん届けてくれる。
もちろん、自分がどんな情報が欲しいのかという前提ありきで
雑誌を選んでいるからってのもあるかもしれないけど、
それでも毎回一貫したテーマでありつつ、飽きさせず、自分も安心して読める。すごいです。

とはいえ、ブレるというか、テーマを一新して今までとは全く違う打ち出し方をする雑誌もある。

たとえば私が経験したのは、CUTiEという雑誌。
あれは私が高校生の頃だったでしょうか。
CUTiEっていえば、奇抜なファッションが目を引いたものです。
いわゆる「古着系」、「裏原系」とか言われるジャンルで、
服の色も柄も着崩し方も、化粧も眉毛も髪の毛もほんとう自由。
白装束みたいなものから、ゴリゴリ民族系、どこぞのパーティーかってものから
アメカジがもっとぶっ飛んだものとか、黒ずくめ、ロック、ガーリー、エトセトラ・・・

うまく言えないけど、ジャンル的には、FRUiTSとかがそれっぽいかも。
FRUiTSに出てて、CUTiEにも出てる人とかも、いた気がする。
(まだFRUiTSってあるんですかね?最近見てないなあ)

いかに自分というキャンバス上で、他とは違う個性を表現するか、に
情熱を持った女の子たちの、いわば作品が詰まった雑誌だったかと思います。
しかし私はどちらかというとZipper派でした。
CUTiEかZipperかといえば、Zipperの方が親しみやすさがあると思っていたからです。
(今思えばどっちもどっちかもしれぬ)

が、しかし。
高校の帰りに近くの本屋で久々にCUTiEを手にとったら、わーびっくり。
あのゴリゴリ系の要素がだいぶ薄まって、というかほぼ皆無で、
なんというのでしょうか、普通に女の子らしいファッション雑誌、って感じになっていました。
そして今や、ローラとか大島優子とかまゆゆが表紙になっていらっしゃるんですよ。わーびっくり。
私が知ってる頃のCUTiEでは、
彼女のような子たちが表紙になるなんて、想像もできませんでした。

確かに、CUTiEは今の形になったほうが、ニーズはあったのかもしれません。
今の若い女子高生、女子大生が着るには良い具合にかわいい感じです。
ただ、個人的にはCUTiEといえば
どこぞのエスキモーの服を借りてきたんですか、っていうような不思議な服を着て、
誰かに「ウケる」ことを一切気にせず、自分の好きなものを着て、
少数でもそれを「いいね」って言ってくれる友だちとまた原宿を闊歩する、っていう
そういう人たちのための雑誌だった時のCUTiEが、嫌いじゃなかったです。

でも、時代の流れなのですかね。
どこぞのエスキモー(あくまで一例)的なファッションは、
現代ではあまりにも市場が小さくなりすぎてしまったのか、
「わかってくれる人にだけわかればいい」では済まなくなったのか、
どういう意図で変わったのか詳しくはわかりません。
私も勝手なことをほざいていますが、
CUTiE的にも何かしら思うところがあったのだと思います。

(ちなみにZipperはわりと相変わらずな感じで安心しました。)


で、ちょーイケメン雑誌「POPEYE」。
ちょっと前に気になっていて今月初めて買ってみました。
男のこだわりあふれたファッション、ライフスタイルが詰まった魅力的なものでした。
ダンディズム。
昔からわりと、メンズ雑誌もよく読むほうでした。
男の人のファッションって、サイズ感とかバランスとか、使う色の組み合わせとか材質とか
そういう細やかなところがすごくきれいだったりするので、とても参考になるのです。
シンプルだけどおしゃれ、見れば見るほど味わい深いおしゃれ、
っていうのは、女の人より男の人のほうが上手い気がします。

そんなわけで「POPEYEやべーちょーやべー」とか言ってたわけですが、
このPOPEYEも、つい最近リニューアルをしたと言うじゃないですか。
以下参照。


「メンズノンノを仮想ライバル視するファッション雑誌だった」というPOPEYE。
1990年代のはじめ頃、バブル崩壊の直前の当時、
昔はどうやったらモテるかとかデートの誘い方とか、
そういう話ばっかり載っていたらしい。
へー、最近にわかPOPEYEファンになった私としては信じられぬ。

今、「シティボーイのための雑誌」というコンセプトで打ち出しているようですが、
これはそもそものPOPEYE創刊当時の原点回帰ともいえる、とのこと。
アメリカ西海岸のライフスタイルを日本に紹介する、と。

上記記事によると、シティボーイとは私の知っているところだと、
YMOとかタモリとか岡本太郎、小沢健二とかだそう。ふーむ。
これからの時代はシティボーイだと、ふーむ。
何かよくわからないけど、とりあえず落ち着いた大人の粋でオシャレでダンディな雑誌
というくらいの理解力ですみません。

ってこともあり、昔はイケてると思ったのに今じゃ・・・とか
昔はチャラかったけど、今はかっちょええ!とか
どっちにしろ雑誌のテイストの変化というのは、案外普通にあることで、
これは自然なことなのかもしれない。

冒頭で私が申した、「雑誌はブレがない」ということも、
ずっと死ぬまで一貫している、というよりは、
「ある時代の区切りの中ではブレがない」と言った方が正確かもしれません。
つまり、時代が変われば、雑誌もそれに合わせて軸を変え、
そして読まれる読者層ともごっそり変えて、そしてまた魅了していく。
また読者である私自身、生きている時代の変化に合わせて、
好む雑誌も変えてきたわけですし。
雑誌と自分の関係は、意外と浮気なところがあったりして。

自分自身、もはやリニューアル前後どっちにしろ、CUTiEは読んでいないし、
ZipperもFRUiTSも読まなくなったし、
その後好きになっては、見向きもしなくなってしまった雑誌も数々。
それは自分も、かっこよく言うと変化しているわけで。いや、退化しているかもしれないし。
まあどちらにせよ、何か本当に核となるものもあるかもしれないけど、
案外ずっと一貫性があるってことはなくって、わりとミーハーなもんです。

つまり、一口にポパイといっても、時代によって雑誌の性格はまったく異なるわけで、あるいは、雑誌の性質が次の時代を準備するといってもいいのだけれど、どっちが先かはよく分からないのだが、何が言いたいかというと、今回のポパイのリニューアルは、何度目かの時代の変わり目にあたる時期での"変身"なのだと云うことである。
(引用元:  「ポパイ」のリニューアルで考える時代の変化----シティボーイは復活するのか、ホントに

なるほど、と思いました。
雑誌はいつだって、その時代を表しているのかもしれません。
もしくは時代の移り変わりをいち早く察知して、新たなコンセプトと共に新たな時代を提案しているのかもしれません。
そういう意味では、今の時代を理解するのに雑誌はとても良い教科書です。

そして、自分自身が好む雑誌というものを俯瞰してみると、
移りゆく今の時代を、自分が如何様に生き抜こうとしているのか、
どんな生き方を選択しようとしているのか、どうありたいと感じているのか、
が見えてくる、かも。

雑誌を通して多様な生き方を提示してもらうことで、
人はそれぞれ自分が心地よく感じる生き方を選び、散り散りに多様化し、絶対の信頼を持つ。
(生き方っつーと大げさだけど、要はどんな服を着るかとか何を食べるか、読むか、聴くか、ということ)
ひとつの媒体につくファン層というのは、マス的に大規模なものもあれば、
非常にマイノリティなものもある。
ただ数が少ないからといって、マイノリティは必要ないことはなくて
それはそれで、誰かの心の支えになっているはずなので、
マス風の派手なことはできなくても、
独自のライフサイクルで持続可能なものにはなると思う。

多数派と少数派という対立軸に置くのはナンセンスですので気をつけたいですが。
とりあえず、AKB48も在日ファンクもビートルズも渋さ知らズも何でもいいけど、
メジャー/マイノリティーとかではなくて、それぞれ一定の大事なファンがいるだろうから、
それぞれのやり方で存在意義を発揮して、独自のコミュニティで楽しみ続けて、
それぞれの見える距離の幸せを掴んでいければいいですね。
そうすりゃ世界は回るんじゃないかと、また勝手なことを思っていますよ。


好きな雑誌を、好きなように読み、
飽きたらまた次を探せばよい!以上。


かしこ

2012年11月17日土曜日

秋は、気付いた頃に終わるので

秋とは、気がついた頃には終わっている。

そして、自分は想像以上に貧乏性でチキンである。



    

 

それゆえ、積極的に秋服を買ったり嗜むということとは、あまり縁のない人生を歩んできた。

しかし、この時期って本当服がかわいいですね。

しかし、この時期って、本当に着るものに困りますね。

買えよ、という話か。でもあんまり余裕無いです。

こまったこまった。

2012年9月11日火曜日

村上ラヂオと、心地良い文体について


村上春樹って、おもしろいですね。
と言っても、村上ラヂオしか読んだことないので、あまり偉そうに大声に出して言えませんが。
話題のノルウェイの森とか、1Q84とか、おもしろいと聞くけど、読まずにうだうだここまで来ました。
たぶん、村上作品は好きなはずです。

なぜ読んだことも無いのにそう思うかといえば、
大学の時、唯一シンパシーを感じられて心からワクワクできる授業をやってくれる教授がいて、
その教授がとても村上春樹ファンだったからです。
その教授は、授業で村上春樹のことをよく取り上げていたし、
自分で村上春樹をテーマにした著書さえも出版しておりました。

私自身はその教授の考え方にすごく通じるものを感じたし、
話すことや生き方の雰囲気がなんだか好きだったから、
きっと自分も村上春樹は好きなんだろう、とずっと勝手に思っていました。
ある意味それで満足してしまったのもあって、
特に「さあ、読んでみよう」と強い意思を持ったことはありませんでした。おかしな話ですが。
「読まずもがな、わかるがな」という謎の意地ともなんともつかない頑固さを貫いてきたわけです。

とはいえ、そろそろおとなになったし(関係ない)、
村上のひとつやふたつ読んでみるかと、偉そうに手にとったのが、まさかの村上ラヂオですみません。
小説は・・・けっこう読むのに気合い要りそうだから(また食わず嫌い)。
エッセイくらいであれば、サクッと気軽に読めて、
かつ作家の感性や人柄みたいなものも、わりとわかりやすいだろうと思って。
いちおう考えた上での、村上ラヂオという選択ですのであしからず。

初めてきちんと読んだ村上春樹の文章、なんだい、とてもおもしろいですね。
すごい、なんというか、センスがすごいです。
私の貧しい表現力では説明できませんので、細かい感想は全力で割愛させていただきます。

とにかく、するするっと読めてしまいました。
これならこたつで豆せんべい食べながらうなだれている時でも、
ぺろっと読めてしまいそう。しかも楽しく。

きっと、人にはしっくりくる枕がそれぞれあるように、
読み心地にしっくりくる文章とか語り方みたいなものがそれぞれあるんだと思います。
読んでいても全く疲れない感じ。

私は糸井さんのことはすきですが、正直糸井さんの書く文章はずっと長くは読んでいられません。
よくあるビジネス書の類やいわゆるマーケティング本みたいのものも、
読みたい気持ちに反して、相当の気合いとスタミナが無いとなかなか読めません。
吉本隆明も、なんかすごい良いこと言っている気持ちはするけど、難しくて白目むきながら読みますし。
森見登美彦の文体はけっこう好き嫌いあって読みづらい感じですが、意外と平気です。
伊坂幸太郎はもちろん、いくらでも読んでいられます。

そんなわけで、どれだけ量を読んだか、時間をかけて読んだか、
内容を理解したか、読みたい気持ちが大きいか、はあんまり関係なく、
時にはまともに読んでいなくとも、心地よく感じる作家とか文章が存在したりします。
だから読書とか、文学とかに関しては、
もちろん知識だとか量も大事なひとつの要素になると思うけれど、
本当にフィーリングでしかない感覚とかってものも、案外大事なものなんじゃないかなと思います。

久々に、文系人間ぽいことを言ってみました。
ちなみに文系、理系というくくりはどれほど意味を成すのか、
もはやよくわからないので、最近は安易に口にし難いなあとか思ってます。
まあ、そんなところです。

かしこ

2012年7月5日木曜日

痛々しく異様なインターネットを、人間的で趣深い文化として楽しんでみること。

日々こうしてインターネットにまみれて過ごしていると、いろいろな違和感を感じる場面が多いのです。
今日はインターネット周辺の、うさんくさいなあ、と思ってしまう諸々を、
この場をお借りして吐き出しつつ、そんな「うさんくささ」を「人間くさい愛嬌のある文化」として消化していこうかと。
つまりは本日の文章は、完全なる自己満足・自己解決の勝手気ままなものですので、
アホだなあ、と思いつつ流し見ていただければと思います。


■きれいすぎるインターネットの痛々しい本性。
ネットの中では、思う存分、ここぞとばかりに愚痴や不満や批判を垂れ流して
誰かを巻き込み、ひっちゃかめっちゃかに暴れて、
どうにもならないもつれを生じさせるような、腹黒い側面が良くも悪くも醍醐味です。
しかし、SNSとかなんちゃらで、ネット上の自分がわりとパブリックに透明になったために、
今度はとことん清く正しく美しく、ユーモアが通じて人当たりがよくて前向きな側面を
超積極的に押し出す傾向が見られるようになりました。
でもそれにも限界が見え隠れしている。
ここらへん最近だと各方面で既に言われてきたことだと思います。

今日はこの記事が話題になっていました。
『誰でもできるインターネットの始め方|オモコロ特集』

これ、非常におもしろかったです。
どこがって、夢と希望にあふれていたはずの僕らのインターネットの、
非常に残念で痛々しい部分を、センスの良いジョークで、
ひとつの趣深い文化的な視点を示してくれていること。
それによって、私はこのうさんくさい陰湿なインターネットを嫌いになるどころか、
クセのある粋なカルチャーとして、それはそれで親しみ楽しむことができています。

「自傷情報交換サービス」のTwitter。
「糸井重里を寒天で固めたような集団」のFacebook。
寄付を乞うwikipedia。
非常に秀逸な皮肉。

「インターネットで時間を浪費することが精神的な自傷行為」。
それに対する「言い得て妙」の声の主は、
自身も自傷行為的なインターネットに身を投じているわけだが、
妙に納得しちゃって、怒ったり落ち込んだりするどころか、「ワロタw」とおもしろがっている。
私もそんな自傷行為にうつつを抜かしながら、ワロタwとぬかしているこれまた自虐的な人間の一人です。


■痛々しく異様なインターネットを、一種の人間的文化として楽しむ。
インターネットは夢と希望でいっぱいな一方で、気持ち悪いし、こわいです。
でもそれがある意味、富士急ハイランドの戦慄迷宮にハマるような、
マキシマムザホルモンにハマるような、特有の魅力があります。
なんだか真っ当さが無くて引け目を感じるんだけど、
そのひねくれた感じだおもしろいというか、
またそのひねくれた自分も嫌いじゃないというか。
もしかしたら変態とか言われちゃうようなことって、
意外と人間はみんな、大好きなんだろうな、と。

そういう人間の興味深い心理とかが垣間見れるから、
インターネットっておもしろいです。

私は、インターネットを通して、人間の勉強をしているんだと思うんです。
いや、インターネットだけじゃないか。
たぶん今こうして、PCの画面を眺めたり、
仕事をしたり、ビールを飲んだり、スポーツしたりなんやかんやすることの根本にあるのは、
自分もしくはそれ以外の「人間」というものへの興味関心なのかな、と。
自分が人間であることの楽しみを、人生をかけて模索して研究して、
じっくり独自のカルチャーを生み出して生きていくのかな、とかなんとか考えました。


そんな感じで、もうひとつ。本日はこちらの記事もとても楽しく読みましたよ。
異様なところに「触覚」を伸ばせ (第5回) マーケッターの「人生」に問いかける本:菅原和孝『身体の人類学』|PRESIDENT Online


うさんくさいことも、呆れることも、
また人間が変なことしでかしたもんだ、と
それはそれで趣としてたのしむ余裕が生まれると、
変に流されずに、人生愉快に過ごせるかもしれない。

きれいな型に落ち着かなくても良い。
適当にアホに生きたもん勝ちな気がします。
尊敬する恩師を見ていても、そう思います。

そんな今夜に捧げる音楽はこちら。




かしこ

2012年7月2日月曜日

7月なんで、私生まれたんで、夏なんで。

太陽がまぶしいよ!原っぱで昼寝日和だよ!外で飲むビールが最高にうまいよ!
もう7月だって、最高にわくわくする夏が来るよ!

7月になると、無性にテンションが上がります。そりゃ自分が生まれた月だから、これは本能だな。
初夏の空気と匂いを感じると、うずうずします。
毎年、人生なにかとしんどいこともありますが、
毎年、夏はなにかとカラッとファンキーで愉快な時間を過ごせていた気がするのです。

会社のイベントでBBQをしました。
非常に良い天気に恵まれまして、たくさんの肉と野菜と魚介を焦がして、
煙に燻されて、スモークな香りにつつまれて、太陽に肌が焼けて照りっ照りになりながら、
日焼け疲れして筋肉痛になって、6月はあっという間に終わりました。
とにかく、外で飲む冷えたビールが美味しすぎて、
この味が早くも夏の思い出と化して、なんだか既に切ないです。
夏の終わりは切ないものですが、
私といたしましては、夏の始まりから既に切なさは始まっています。毎年のことです。


本能的にセンチメンタルかつファンキーになる今月ですから、
ある意味感受性豊かに、空気とかリズムとか何でも適当にノッちゃう気分なわけでして、
そこのところすこし気持ちを落ち着けつつ、いつもより軽やかな感覚をきちんと楽しみたいものですね。

何よりこのワクワクの原因は、FUJI ROCK FESTIVALにあり。
行けるかまだなんともわからないけど、行けても土日のみ弾丸コースだけど、
これ行かずして夏が終われる気がしない。
我が青春のlocofrankを聞かずに夏は終わらんぜよ。
ちょーメロコアで飛んで跳ねるのもよし、
オーケストラで踊るもよし、
井上陽水で心揺さぶるもよし。

そう、今年も夏がやって来た。

かしこ

2012年6月23日土曜日

そもそも、大きな世界を見据える前に、小さな自分を見直したい。

最先端のこんな機能を使えば!
今トレンドのこちらのサービス!
ハイセンスなデザインを施しました!


たぶん、いやもちろん一概に否定はしないけれど、
そもそも、まず本当にやるべきことって、他にあるんじゃないの?という話です。

私自身、新しいWebの「しくみ」を広く届けるために、
日々奮闘して仕事をして、情報を集めたりしているわけなのですが、
その「しくみ」は、あらゆるWebサイトの問題点を根こそぎ解決するものではないと思っています。
「しくみ」で解決できる部分は、機能としてのパフォーマンス向上で、
でも、すべてのWebサイトが機能を備えれば最強のWebサイトになるってわけでもない。
もちろん、「しくみ」が実現する、工夫をこらした最強の機能は、
Webサイトが活性化する可能性を、ぐーんと広げてくれます。
けれども、ぐーんと広がるのは、「そもそも」の部分がしっかりできている、という大前提の上で、です。

「そもそも」の部分、って、たとえば、
他でもない、じぶん(たち)のWebサイトに、じぶん(たち)だけの熱い思いを持てているのか、
来てくれた人たちに、正直で誠実な気持ちで対応しているか、
ユーザー目線で、コンテンツをつくっているのか、
ちゃんと「ありがとう」「ごめんなさい」が言えるか、
なによりじぶん(たち)が楽しめているか、
などなど。

つまり、おおざっぱに言うと、
商売人として、当たり前にたいせつなことができているのか、
また人間らしさがちゃんとあるのか。

それができていないのに、
最先端のテクノロジーですべてを解決しようたって、
絶対無理だと思います。
というか、
「そもそも」の部分がしっかりしていれば、わざわざ最先端のテクノロジーって
本当であれば、使うまでもないような気がしないでもないのです。

別にソーシャルメディアなどのテクノロジー使わなくても、クールなデザインじゃなくても、
売れるECは売れるし、人が集まるWebメディアはどんどんコアなファンが集まります。
ソーシャルやクリエイティブってものは、
何にでも効く魔法の薬じゃないし、ひとつの画期的な手段ではあるけど、
逆に副作用起こして全然使えない、っていう場合だってもちろんあるはず。
本当にそのWebサイトにとってソーシャルやクリエイティブが解決方法になるのか、
きちんと見極めた上で、わたしたちは「しくみ」を届けてゆかなければいけない。
届くべきところに、届ける、というような。

わたしは自信と誇りを持って「しくみ」を届けようとしているし、
この思いに偽りはありません。
けど、その「しくみ」を使いたくない、という人がいたって、別にそれはそれでいいと思います。
本当にしっくりきて、こりゃもうすごい可能性広がっちゃうから、
やらなきゃ相当もったいない!というところに、着実に「しくみ」が伝われば、良いのです。
だからあまり一方的に、ソーシャルだ、なんちゃら、って言っちゃあいけないな、と。
もちろん「しくみ」のPRはきちんとして、
必要としている人のもとにはしっかり届けて行かなければいけないので、
力加減とかバランスが難しいところではありますが。
本当は特に使う必要がないはずの人を、変に煽るようなことはしないように、
気をつけなければ、なんですが。。


これを言っちゃあ、身も蓋もないかもしれないけど、
たぶん「そもそも」の当たり前をみんながそれぞれ出来ていれば、
あとは何も必要ないんじゃないかしら。
そして、本人が満足して、大規模じゃなくても、その身近な人がしあわせなら、
それだけでもういいと思う。

古くさい小さな食堂が、王様のブランチに取り上げられて、人気店になる必要はない。
その常連さんと、店員が、長年親しんできた関係を穏やかに続けられるなら。
近所の書店の小奇麗なお姉さんが、美少女コンテストで優勝して、有名人になる必要はない。
書店のお客さんと、その家族、友達、恋人が、彼女の美しさや気さくさをきちんとわかっていれば。
(もちろん、当の本人が行列のできる人気店になりたい!有名人になりたい!と言うのなら別ですが・・・)

とにかく、自分と、自分の身近の大切な人やものや場所のために、がんばるしかない。
よく、世界を見据えて、ダイナミックに行動に移すべき、と言われるかもしれないけど、
わたしは世界を変えられないし、
遠くの世界の誰かのためより、まず近くで笑っている大切な人を守りたい。
そして何より、自分の気持を大切にしたい。
大きなことを問題とする前に、
まず見なおさなきゃいけないのは自分の足元だと、いつも考えています。
自分のできる範囲で、精一杯の自分なりの役割を果たすのみです。

そういう意味で、webサイトも同じかな、と思う。
ソーシャルメディアという新しい大きな取り組みに手を出す前に、
いつもお客さんに見せる顔や、商売への熱い思いを、
もう一度改めて、振り返ってみる必要があるんじゃないでしょうか。


そんなふうに思ったよ。


かしこ

2012年6月5日火曜日

写真で振り返る、思考の整理。


わたし、Facebookちょっと苦手意識があります。
ひねくれ者なので、自分のプライベートなど安易に垂れ流してなるものか!と意地になります。
でも、自己顕示欲とか承認欲求とか、ごちゃごちゃ考えるの抜きにして、
単純に、なかなか会えない人とも気軽に会話できちゃって、
なんだかうれしい楽しい気分にさせられるので、
悔しいけど、Facebookにはお世話になっています。
心が荒んでいる時に、Facebook上でも懐かしいあの人やこの人と
ゆるく交流することで、いろいろ良いきっかけをもらっちゃったりもするので、
悔しいですが、そういう世の中なんだな、と思わざるを得ませんな。
たぶんちょっとの勇気が無いだけで、会いたくても会えずにいる人がたくさんいて、
そういう人と会う言い訳を作れるのが、ひとつのSNSの魅力かもね、と。
変な意地はってないで、会いたい人・話したい人とは会ったり話したりしようと思いました。
まったく、おかしな世界になったもんだぜ。


ゲストハウス行ってきた。
オランダの女の人と、たどたどしい英語を駆使しながら、おいしい窯焼きピザの店でお酒を飲んだ。
意外と英語はどうにかなるもんだ。ずっと読む専門だったけど、たまには喋らなきゃなあと思った。
コニカミノルタプラザで、サイトウリョウ写真展を見た。色がすごくきれい。
人間の怪しさや欲望、自尊心や厳格さみたいなものを、ありありと感じる時間でした。
自分の見る世界はまだまだちっせーと思う。


実家で手巻き寿司をもりもり食べた。ひたすら。
父親の作った茶碗蒸しは、相変わらず最強である。
そしてビールではなく、発泡酒を飲むのが、昔から我が家のスタイルです。あっさり飲めてけっこう良いのよ、発泡酒。
自分の原点はやはり、この家族にあるなあと感じずにはいられないです。
この間、久しぶりにがっつり母親と電話で話したら、無性にすっきりして、
もやもやしていたことが、ひょんなことから解消できるような出来事がポコポコっと起きました。
ああ、これぞ母の力なのだなあと思ったりなんだり。不思議なものです。
ひとまず、この流れに乗って、今週もがんばろうと思った次第です。

かしこ

2012年6月1日金曜日

90年代の音と空気。


90年代というと、私はただ目の前の小学校生活に毎日必死で、
大人たちはどんな音とお酒を味わい、踊り、髪型と洋服にこだわりを持っていたのかなど、
まったくもって考えたことなどありませんでした。
その時の私など、たまごっちの世話とドッヂボールと泥団子作りに毎日忙しかったわけで。

でも何となく、90年代の世間のトレンドを、子どもながらに眺めてみた時の印象は、
なんだかコギャルという肌の黒い、だるだるの靴下を履いた女子高生が
「ちょべりば」などという、いちいち癇に障るような意味不明な言葉と、
超重低音の音楽を爆音を撒き散らかす、ハイビスカスを飾った真っ黒な車など、
なんだか粋がった世界があるものだなあ、というような具合でした。
がきんちょのくせに、そんな世間を冷めた目で見ていたような気がします。

そうしていつのまにか私も大人の仲間入りをしまして、
90年代に青春を謳歌していた方々に影響されまして、
フィッシュマンズを始め、その頃のいろんなバンドや歌を教えてもらって、
なんだ、90年代ってこんなにも不思議で自由でイカした世界があったんだ、と思いました。

それまでって、なんとなく古くさいようなイメージだったのに(失礼)
今じゃすごく憧れの時代だったりします。変な言い方だけれど。
奥田民生とか、H Jungle with tとか、YMOとか真心ブラザーズとか、ハイスタとか。
その頃の音楽や雰囲気がすごく素敵だと、今は本当に思っています。

ゆるっとしたTシャツに、だぼっとしたハーフパンツ。
適当な帽子かぶって、おどるかんじ。

たぶん、今30代とかそのあたりの人たちが、
ちょっと若い頃はじけていた文化や(バブル的なのじゃなくてね)
今大人になってもなお、青春時代の文化を残しつつすこし進化させて、
外遊びしたりフェス行ったり踊ったりしてはしゃいでいる姿が、
なんとも素敵だな~と思うのです。
うまく言えないけど。
大人っていいな、って、うらやましがってる最近です。
私も十年後くらいには、あんな風に、少年のような大人になっているのかしら。
なれたらいいね。

かしこ

2012年5月18日金曜日

「インターネット」と歩んだ日々と、根本にある関心事

「つもり」が多すぎて実体が無い自分が嫌すぎるので、
ちゃんと確かな知識を蓄えようと思いました。
つまりは、単純に勉強不足なので勉強しようというお話です。

とその前に、これまでの自分とインターネットの認識を振り返ることにしました。
前フリです。長いです。いつも通り自己満足です。


●私にとっての身近だった「インターネット」
サイト運営当時から使ってるアイコン。

そもそも、私がインターネットにハマりだしたのは、中学生~高校生の頃だったかと思います。
趣味でホームページとか作ってました。
最初はホームページビルダーを使って、
徐々にその機能じゃ物足りなくて、HTMLとかCSSを触ってみたり。
でも、いまだにその辺のちゃんとした意味は理解してません。
フィーリングと勢いと自己満足の塊のようなホームページを
十数個ほど形だけはつくったものの、
結局、ちゃんとFFFTPとか使って公開したのはひとつだけ。

忍者ツールズとかでアクセス解析するのね。
リピーターがこんなに!とかわくわくしてた。
あとWeb拍手!今で言う「いいね」みたいなものなのかな。
コメント残すよりも気軽にサイトを褒めることができるので良いです。
拍手してもらうと地味に、いや結構うれしいんです。
拍手してくれた後に表示される画像とかも、
自分でポップなイラスト描いて、Thanks!とか言ってみたりね。懐かしいなあ。

内容としては自分で作ったアイコンとか背景画像などの素材を配布したり、
趣味の写真や絵などを載せたりしてました。
あの当時は「auto」とか「あしあと」とか呼ばれる、掲示板の簡易版みたいなものを設置して
いろんなサイトとつながったり、ちょっとした交流をたのしんでました。
素材使うときはメッセージのこしてね!とか、
素敵なサイトですね、あしあとぺたり、とか。
若かりし頃のインターネットの楽しみ方が、それでした。うおー



●手軽になった「インターネット」
「なにやらブログとかいうのが流行っているようだ。」
ブログとの出会い。
よくわからんけど初めて見るか、と、
すきだったサイトさんが使っていたJUGEMで、私もブログデビュー。
なんかかわいいテンプレートいろいろあるし、
HTMLだFFFTPだとか言わずに、簡単に自分のホームページが持てる!という感動。
日記はブログで書くようになり、
その後完全に発信の場をブログに移行させました。
ずっとJUGEMユーザーだったんだけど、
テンプレートは自分でHTMLやCSSをいじることもできたので、
ヘッダーやサイドバーとか、フリーページをアレンジして
ホームページみたいに運営していきました。

ブログに置くコンテンツも、完全オリジナルのものから、
別のWebサービス使って便利に簡単に作れるものにしていった。
ブクログとかflickr、last.fmが流行りだして、
だんだんTwitterとかtumblrなんかが主流になってきたのです。

あ、Twitterとかが流行る前はたぶん、最近ちょっと話題になってるalfooが主流だった。
携帯からメールで日記を投稿できて、なかなか画期的。
その場で思ったことを、愚痴でもなんでも垂れ流すように投稿していた。
本当に数分置きとかで投稿する人も多かったし、
「リアタイ」とか「@docomo」とか、おしゃれな人は「murmur」とかつって
乙女な感情を垂れ流していたものです。
alfooについては、下記に詳しくまとめられています。

『Alfooって知ってる? フォト日記サービスのデータ破損で数年間に渡る想い出が消えそうで泣く女子たち』
http://matome.naver.jp/odai/2133707275977841601

私が生き生きしていたのは、いわゆるWeb2.0的なところで、
今じゃ死後みたいに言われているけど、そこに何より楽しみを感じていたりしたかもしれない。
それはたぶん、今でも。



●SNSに戸惑い怖くなった「インターネット」
だんだんTwitterとかmixiとかが周りで流行りだして、
私のインターネットの楽しみ方への戸惑いが始まりました。

今までは、何か情報やコンテンツを発信する場合にも、
反応があろうがなかろうが、誰かと交流が生まれようがなかろうが、
それが可視化されることはなかったし、(友達の数とかフォロワーみたいに)
特にそこだけに注目する義務があまりなかったように思います。
そういうわかりやすい指標よりも、
実際のコンテンツの豊かさとか、
気ままでゆったりした偶然のつながりを
じっくり味わえるってことに、何より価値を感じる傾向がありました。
インターネットのどこに楽しみを感じるか、
なにをもって良質なコンテンツ、つながり、と言うのか。
特に決まったルールもなく、それぞれの価値基準でそれぞれが楽しめたのかなと思います。

けれど、いろんなSNSとかWebサービスが普及していくことで、
各々が持つ「ホームページ」のようなものに、それほど差異が無くなった。
みんな同じように簡単にかっこよくコンテンツが作れる。
だからどこが重視されるかというと、
どれだけ多くの人の反応や、人とのつながりがあるか、
というわかりやすい数字に目が行きやすくなった。気がします。

そこに私は無言の圧力みたいなものを感じてしまって、
友達やコメントの数でインターネット上での自分の価値を一括で判断されるような気がして
そういうのが何か嫌で、
もっと自分は自分で自由に気ままに楽しみたいのに、
最近のインターネットはそれを良しとはしてくれそうにない…
だからといって無理に人とのつながりを作りたくないし、
人とのつながりのためにコンテンツを作るのも、
他人の顔色を伺ってモノを作るみたいで嫌だったから、
当時みんなやってたmixiも、やらなかった。
こっそりこっそり、今では闇となったインターネットの隅っこで
細々と過ごしていました。

でも、当然SNSを楽しめている人のことはうらやましかったです。
たのしそうだなーって思ったけど、自分にゃ重労働だと思って、
食わず嫌いをしばらく続けていました。



●いろいろあるけどやっぱり好きな「インターネット」
とはいえ、さすがにSNSを使うようになった私でございます。
下記のような本にちょっと救われながら。

『ゆるく、自由に、そして有意義に──ストレスフリー ツイッター術 渡辺 由佳里』
http://www.amazon.co.jp/dp/4255005532

友達の数とか、もともとの現実的な自分のステータスをベースとしてのインターネットは
すこし息苦しい気持ちがしてしまうのはあったりしますが、
でもだいぶ、以前よりは苦手意識が軽減されたかなと思います。
というか、もうここは好みの問題かもしれないと最近は考えています。
SNSが良い悪いとか、オープンかクローズドかとかなんちゃら、って言うより、
単に私がこういう性格で、SNSにはこういう意識を持っていて、というだけの話なので。

なのでズバリな議論は到底私にはできまへんが、
でも概して、インターネットにもおもしろい可能性はいっぱいあるなあというのは
正直な気持ちとして確かにあります。それはソーシャルメディアに対しても。

けれどやっぱり、ここは主観的な話になりますが
新しいソーシャルメディアとかのところもおもしろいけれど、
私がさらに気になるおもしろさは、
昔ながらの、個々の自由な情報発信を通じて不特定多数とつながる、というところ。


『今どき、Web2.0の話ですけど: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)』
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/web20-5019.html


まさにこれ。Web2.0について。
ここ、お得意の「わかったつもりの知識」なので(笑)
今のこの認識も、かなりズレていたりするかもしれないのですが…
これからWeb2.0のことをきちんと勉強してみようと思っています。
きっと今あるインターネットのベースとなったところだから、
きちんと理解しておく必要はあるのかな、と。



『Web屋の本 ~ Web2.0,ビジネスサイト2.0,Web屋2.0 (Web Site Expert Books) 中野 宗』
http://www.amazon.co.jp/dp/4774128147

『オンライン・マーケティング-ネット広告-HANDBOOK-大山-忍』
http://www.amazon.co.jp/dp/4798110868

社内にある、こちらの本をまず読んでみようかと。
というか、普通に、仕事をしていく上でこのあたりの知識がきちんと備わっていないと
到底一人前にはなれん!と、入社1ヵ月を過ぎまして、ひしひしと感じるので…
本当どうしようもなく中途半端な自分の尻を叩いて、精進して参ります!!!

かしこ。

2012年5月15日火曜日

インターネットと私の矛盾。

前回はブログに何を書いたかなど覚えていません。やる気にムラがありすぎます。
こんな風にインターネットのあらゆるところに文字や写真を残しているわけだけど、
でもさ、自分の体験や感じたことを、ネット上に形として残すことにどれほどの意味があるんだろう、って
たまにふと思うのです。


おいしいごはんを食べに行きました。写真撮ります。ネットに投稿します。
みんなでわいわい楽しみました。オレ今世界一この瞬間を楽しんでるYO、ちょーしあわせだYOってつぶやきます。
こうあるべきである、これはナンセンスである、そう思わない?持論に共感を求める。あるいは強要。
ソーシャルネットワーク上では、誰もがしあわせで前向きで輝いている、と、どこかで誰かが言っていました。


私はたまに、この世界のことがよくわからなくなります。
自分自身も、ソーシャルネットワークで自己表現しようと足掻いたり、
インターネットで普段できない自己主張をしようとしたり、
たまーにもらえる反応に、この上ない恍惚感を味わったりしているけど、
こういう感覚が、いったい何になるのか、精神衛生上良いことなのか、
よくわからなくなります。


さみしい、つまらない自分が、なんとなく輝けるような気がしました。
だから、インターネットの明るい部分に顔を出そうとしてみました。
けれど、なんだかよくわからないむず痒さと違和感を感じてしまいました。
本当は羨ましくてしかたないのに、憧れを抑えられないのです。
でも、これは性に合わんわい、青臭いぜまったく、とかつって、
そういう明るい部分から顔をぷいっと背けて、
もうすこしひねくれた自分として、こっそりとインターネットの隙間を生きていくようになりました。

とにかく、自分も含めて、あちらこちらが違和感でいっぱいです。
結局、ほんとうに私がうれしいたのしいおいしいあいしてるぜベイビーな気分になれる場所は、
そう簡単に、少なくともPCとスマートフォンをちょろっと操作した先には、
見つけられないんだろうな。
ある程度、いや相当な程度の、まわりくどさともどかしさ、
面倒臭さやカッコ悪さの先に、ひょっこり見つかるんだろうな。

時間がかかりそうです。
でもたぶん見つかります。根拠はないが。
そんで、こんな風に言っておきながら、
ふつうにインターネットどっぷり生活は、続いていきます。
理屈の通りに人間は生きてはゆけないです。
基本矛盾してるし天邪鬼なのは、仕方のない性だと思います。
適当にいきましょう。

かしこ。

2012年4月9日月曜日

YouTubeのco-founderが準備中の新サービス『Zeen』のキーワードは「雑誌」、らしい。

なんだか、気になるサービスが登場しそうなのでメモ。
「美しい雑誌を見つけ、創る」というコンセプトの『Zeen』。
以下、The Next Webの記事を粗訳。


YouTubeの共同創設者のChad HurleyとSteve ChenによるAVOS社が、YahooからDeliciousを買収した1年前に立ち上がってから、これまで同社の音沙汰を聞くことはなかった。
しかし今、『Zeen』と呼ばれる新サービスのスプラッシュページが登場し、「美しい雑誌を発見し創ること」ができるようになると約束しているのだ。

現在、このサービスがどんなものになるのか、得られる情報はあまり無く、ユーザーネームを取得する機会を提供するのみにとどまっている。プライバシーポリシーによれば、マルチメディアによるシェアがこのサービスのコアな部分となるとのことだ。そしてブラウザのブックマークレットが利用できる、ということをほのめかしている。
 via YouTube Co-Founders Working on New Service, Zeen | The Next Web



ということで、近いうちにまたひとつ、おもしろいサービスが登場しそうな予感。
自分オリジナルの「雑誌」がかっこよくできちゃうってことかな。
いわゆるキュレーション系サービスのひとつなのかな。

とりあえず、自分の名前のユーザーネームをキープ。
どんなものか気になりますな。ちゃんと使うかしら。
我ながらミーハーでございます。


かしこ。

2012年3月31日土曜日

卒業。現在無職。

ジャンクフードと、ピッチャーに注がれた甘ったるいカシオレと、箸が散らばっているような大学生活は、
本当にくだらないけれど、もう二度と訪れることはなく、今後味わうこともないだろう貴重な時間だったのでしょうか。

先日、大学を卒業しました。
学位記を受け取ってしまった後は、もはや大学生ではないらしく、
入社式もこれからなので、まだ社会人でもない。
なにやら私は今、正式には無職、ということのようです。

とはいえ、もう貴重な無職の日々もあとわずか。
来週からはいよいよ社会人。いわゆるサラリーマン。OL、ではないと思う。
ちょー緊張するし不安です。おえー。
でも楽しみでわくわくしちゃう感じもします。
不安とわくわく、どちらが大きいかと言われると、自分でもよくわかりません。
でもどちらも正直な気持ちとして存在するのは、確かです。


卒業式を終えて、大学生活のことをいろいろ思い出し、物思いに耽ったりしました。
正直今よりも、昔はよかったなーって思うことばかりです。
昔のほうが、若者らしくたくさんの人と時間を共有したし、たくさんのことにチャレンジしたし、
本当に大事な人たちと、アホらしくて濃い体験をしていた。
毎日が忙しくてバタバタしていて、でも楽しくて充実していて大切な日々だった。

いつの間にか、自分の将来に向けて目の前の現実を受け止めなければならなくなって、
考えることばかりに集中して、感じることが減ってしまったかもしれない。
論理的な理屈で自分を定義して、何かと他人と比べることばかりに一生懸命になった。
そうしてだんだん、感情を置き去りにして冷めた目でしか物事を見られなくなった気がする。

(くだらないこと:凍ったビールの立体的な泡)

昔はあんまり考える暇がなかったくらいに、
いつもいろんな感情に振り回されながらも、
本気でしあわせだーたのしーって思う時間があったから、
理屈や比較など妙な技を使わずとも、
感じるままに物事を受け入れて、より人間らしく生き物らしかった。
そんな自分の野生児時代を思い出すと、
うわーって恥ずかしい気持ちもしつつ、
今のプライドの塊みたいに気取った自分に比べりゃ、
よっぽど愛嬌があっておもしろい味があったなあ、と寂しく思うのです。

でも、こういう自分はこれから刺激的であろう毎日の中で、
どうにか直していきたいところ。
名前のわりに、全然素直じゃないので、ぜめてそこのところどうにかしたいわけであります。
このままじゃ、名乗れなくなります。


しかし、昔はよかったなーって思う時は、
たぶん昔のままの環境が自分には物足りないとか、
ふさわしくないものになったから、というのもあると思います。
そんな時こそ実は、むきむき成長中であり、
新しい環境に飛び込むべきタイミングなのでは、
という考え方はナンセンスで偉そうでポジティブすぎるイタイ感じかしら。あわわ


「なんでこんなに、周囲のテンポについていけないんだろー。
前まで一緒だった生きるスピードが、今じゃ全然違ってしまったのかなあ」
そんな風に、なんとも今の環境に虚無感を覚えるのは、
自分や周囲に落ち度があるとか、そういう話じゃなくて、
単純に環境を買えるべき転機が着ている、ということなのではという仮定。
この仮定が正しいか、答えがわかるのはまた数年後でしょう。

(くだらないこと:跳躍力)


いつまでも全く同じ自分ではいられないと思います。
もちろん自分の芯となるものはあるにしても。
言ってもまだこんな若造なので、すべてに完璧な一貫性はありません。
あの時こうしたいって思ったことも、少しすればやっぱこっちだ、って思ったりするはず。
楽しかった日々や、つまらなくなった日々が、自分のすべてだと思ってしまいたくない。
これまでの経験の中だけで、自分の枠を決めてそれに縛られるのはもったいない。
変わっていく自分にフットワーク軽く対応しまして、
新しい自分の新しい生かし方を、貪欲に探し続けるのが人生ってもんなのですかね。

そんなことを言いながら、きっとまた少し経ってこの文章を読むと、
何いってんだか馬鹿やろうが、と思う気がします。
それでも、そういうものだから、いいのです。
せいぜい昔の自分を恥ずかしがりながら、
懐かしみ羨ましく思えたら、案外しあわせかもしれません。


卒業と入社の狭間に、そんなことを思いました。


かしこ。

2012年3月17日土曜日

最近の関心ごとをただつらつらと。



最近、ほんとうただの日記になっていたので、
そろそろちゃんと、インターネットのことについて、今思うことをいろいろまとめておこうと思います。



●オウンドメディアがカギになりそう。
参考:
「オウンドメディアをきちんと作る - SNSと企業の一歩進んだ付き合い方講座」

「オウンドメディアマーケティング」

「Facebookページのリニューアルで改めて考える『Facebook依存のリスク』」

ソーシャルメディアとかそのあたりの事情やらを掘り下げるようになり半年ほどですが、そんな分際ですが思うに、「なんでもソーシャルメディアでやろうとする」という風潮は、やっぱりあるよなあ、と感じます。
なんでか?って想像して思ったのは、とりあえず人がいっぱいいるから、たくさんの人にメッセージを届けられて、コンバージョンもあげられると思ったから。そして世間の流行、だから。

もちろん一概には言えない(このセリフ最近の口癖かもしれない)し、ソーシャルメディアを使う目的(消費者の声を知る、関係を深める、トラフィックを集める、プロモーションのため、などなど)を、しっかり考えて取り組んでいる人もたくさんいると思う。でも、私の感覚ですが、そこまで目的もしっかり考えずに利益とか売上とか即効性のある魔法のツールのような気分で「とりあえず」「過剰に期待して」使っているところって多いんじゃないかなあ。

かくいう私も、偉そうなこと言えるほどソーシャルメディアを理解できてないのですが、素人なりに思うのは、やっぱり「ソーシャルメディアは誰かとコミュニケーションするための役割が何より大きいよな」と思う次第です。そんなの当たり前じゃって話かもしれませんが、Facebookページのタイムライン化があったということからも、改めてそう思ったのです。

すぐに結果が出る目先にある欲求みたいなものは、ソーシャルメディアでは満たせない。
結局、普段の人付き合いのように、まわりくどいことをして徒に時間をかけて、時に感情を露わに本気で向き合っていかないといけないのではないでしょうか。
効率のいい、万能なマーケティングって、ソーシャルメディアでは無謀な気がしています。

ちゃんとブランディングしてファンを魅了していこうとするならば、
自前で自分のコントロールが効く舞台を用意して、
そこで独自のコンテンツを試行錯誤しながらつくりあげて、
自分たちらしさを存分に出して、それをお客さんにじっくり知ってもらう方がいい。
Facebookとか、よく仕様変更してるから、その度にそれに合わせて方法変えていくのも、なんだかイタチごっこになってしまうような…。

ソーシャルメディアは導線作りやコミュニケーションのきっかけ作りとか、そういう意味では非常に重要です。けれど、本当に注力すべきは、ソーシャルメディアがもたらしてくれたきっかけを自前のオウンドメディアで存分に生かしていくことだと思います。


●自前でたのしいサイトってなんだろ。
ってことで思いつくものを上げてみます。

『ほぼ日刊イトイ新聞』

言わずと知れた、インターネットメディア。
コンテンツのつくりかたから、ECサイトのあり方としても、あるべき姿を体現しているサイトなんじゃないかな、と個人的に思っています。ほぼ日のすてきなところは、欠点とか知っておいてほしいことを正直に伝えた上で、それでもいいから頼ってみよう・試してみよう、と思える安心感なんじゃないかなあ。企業のポリシーとかモノを売り買いする時の注意書きとか考える時、ほぼ日の姿勢はぜひ見習いたいところです。


『北欧、暮らしの道具店』
株式会社クラシコムによる北欧雑貨のECサイト。代表の青木耕平さんの「効率化だけではない!中小~中堅ECサイトの成果を上げる「メディア編集力」とは」というスライドには、すてきな衝撃を受けました。会社でBRUTUSの「今日の糸井重里」を課題図書にしたり、ほぼ日から影響を受けている点もいろいろあるようです。こういうECサイトっていいよな~と、本当に素直に感じられます。

『東京R不動産』
東京のちょっと変わった物件を独自のセレクトで展開してる「東京R不動産」。他の不動産屋には絶対にないここにしかない情報、ここに来れば何かいい部屋があるはず、コンセプトとセンスが信頼できるからここで選びたい、というようなコトを見事に体現したサイトです。オウンドメディアやブランドのあり方として、とても学ぶべきところが多いです。ああ、リノベーションしたい。


●結局「じぶん次第」なのかなあ、と。
誰にでも使える万能薬、みたいな方法論を考えたりつくったりするのって、とても難しいと感じます。私は個人的に、なんでも最後は自分次第で自分で考えてやるしかないでしょ、って思ったりします。とはいえ、そう言っては世の中に向けてなにかつくったりモノを売ったりする意味がなくなってしまう。範囲の狭い広いはあるにせよ、人はふたりでも100人でも100万人でも、思いを同じくする人を見つけて一緒になにかやったりしなけりゃ生きてられないものだとも思っています。だから仲間つくって仕事したりするのですかね。たぶん。

FacebookやTwitterのような、本当に万人が使うようなサービスは存在します。でもそれは特殊。また同時にこういうソーシャルメディアは万能であるからこそ、その使い方は個人次第、というように中でも細分化したり、方向があちこち分かれたりするんだと思います。
そういう時こそ、ひとりひとりの人間力ってものが重要です。万能なものがあるところでこそ、自分の頭で考えて、自分の理論で何でも試して行動しなければいけないと考えています。FacebookやTwitter、もっと言えばインターネットという万人にチャンスがある舞台を与えてもらったら、その先どう活用しチャンスを活かすかはじぶん次第。どんなに優れたステージでも、ストーリーを生かすか殺すかは、そこに立つじぶんたち次第。

だれかの成功論は、わたしの成功論にはなりません。だれかのやり方に踊らされずに、じぶんのやり方を考えて考えてやり始めた人が、抜きん出た存在になれるんじゃないかと。そうして自前の独自の方法を形作っているのが、「ほぼ日」とか「北欧、暮らしの道具店」とか「東京R不動産」なんだと思います。


●ネットとかそのあたりと、自分について。
いろいろ考えてみたりはしますが、結局なにが正解かとか全然わかりませんし、こんなこと考えている意味すらあるのか疑わしいです。でも、こういうこと考えるときは時間も忘れて熱中してしまいます。なんやかんや、たのしいんだろうなと思えます。

インターネットが昔からとてもすきでした。
でもインターネットのすきになれないところ、しぬほどあります。
インターネットの世界なんぞくそくらえ、とか思ったりします。
だけどなぜか私はいつもインターネットをおもしろがっていて、
時間を忘れるほど熱中したことの数少ない例のひとつです。
そんな複雑な乙女心みたいなものを寄せるインターネットに
これから関わっていけることは、うれしいんです。うそじゃないです、ほんとです。



あーよくしゃべった。
相変わらず話を端的にまとめられないところ、どうにかしたいです。

かしこ

2012年3月15日木曜日

あ、引越しました。

そう、引っ越したのです。思いの外、苦戦しました。
部屋が散らかると、こころもあたまも散らかるものですね。
写真は引っ越す前、近くのスターバックスでこころを落ち着けた時。
うーん。今思い返しても、かなり立地の良いところに住んでいたものだ、まったく。

新しい家は、以前住んでいたところとそう遠くはないのだけれど、
ずいぶん閑静な住宅街になりまして、小さい子供たちがわあわあ言っているような場所です。
スターバックスなんぞ家から徒歩20分圏です。とおい。
最寄りのコンビニだって、徒歩10分くらい。あらら。
前と比べたら不便っちゃー不便。
というか、むしろ実家なんか駅まで徒歩50分だったし
それこそ駅周辺にスタバもマックも何もなかったわけだし、
なに東京暮らし気取って、贅沢に調子こいてんだじぶんハゲ、という具合に
前が便利すぎたんだなと反省しました。


で、無印良品も以前は徒歩5分だったのが、自転車10分になってしまったことの負け惜しみとして、
今の家に越してして思った、「いい暮らし」というものを、たらたらと綴ってみようと思います。
まだ住み始めて1週間もしてないですが、
案外わるくはないかもな、と感じたのは負け惜しみかもしれませんが嘘でもありませんよう。



『あそぶ場所と暮らす場所の住み分け。』
前は土日ともなればわざわざ人が遊びに来るような場所に家がありました。
そのため家にいても、ふと思いついたように買い物したり誰かと飲みに行ったりしたものです。
スタバでもタリーズでも日高屋でもなんでもありました。
そりゃ何だか家にいちゃもったいないような気がいつもして、
無駄にどこか出かけようとしては、毎日「おでかけ」するように暮らしていました。

とても楽しかったです。
けれども、「じっくりと暮らしを味わう」ということができていなかったように思います。
外に出れば魅力的なモノゴトがあふれていて、見渡せばすてきなヒトだらけで、
いろんな憧れを一気に吸収しては、じぶんも背伸びしてふさわしいような町民を気取っていました。

すると、あらためて「落ち着いてじっくり時を過ごす」ことがほとんどできなくて、
そんなことをしているのが無駄なように思えてしまって、
何だかいつも心が忙しなかったです。

今、でかけるにもある程度時間と労力が必要で、
一度でかけたら、すぐに家に戻ることはできない、と考えたら、
「でかけるならいったん家でやるべきことをじっくり済ませてからにしよう」と思うわけです。
すると、今までは「あとで帰ったらすぐやる」と言いつつ後回しにしてきたことを
きちんとやる時間を、自然と取るようになりました。

たとえばブログ書いたり、本を読んだり、やり残した仕事をしたり、手帳を開いてみたり。
買いっぱなしだったお香やアロマを焚くとか、
借りっぱなしだったビートルズを改めて聴くとか、
積ん読の本や雑誌を手にしたり、
ゆっくりPCであそんでみたり、
手紙を書いたり、撮り溜めた写真を整理したり。

そんな何気ない暮らしのひとコマが、なんだかとても気持ちを穏やかにしてくれますな。
なんで今まで気付かなかったんだろう、というような、
芯からほっこりする時間の使い方を、あらためて知ったように思います。

どうやら私はオサレカフェでお茶をしていても、
ほんとうの意味で心を落ち着けられない質のようです。
おしゃれなところは自分に不釣り合いな感じがしてあわあわするし、
一杯600円のコーヒーを飲むには、まだ歳相応じゃないかな、とか。


この引越しをとおして、
そんな、自分という人間と改めてじっくり向き合い、
地に足の付いた暮らし、ってものを、
もう一度、発掘していく良い機会になったかもしれませぬ。
なんて思ったよ、てへぺろ。


かしこ

2012年3月3日土曜日

パスタ屋をやめました。


我が青春の舞台、パスタ屋のお仕事を2月いっぱいで引退いたしました。
3年半でした。自分らしくいられる、数少ない場所でした。
やめてしまってからは、何だか生活にぽっかり穴が空いたような気持ちがしています。

忘れないうちに、あのパスタ屋と、自分と、あの時と今の気持ちを書き留めておこうと思います。
長いです。そして自己満足の愛を叫びます。どうかご勘弁を。